佐原の大祭秋祭り「見どころ」
■10月10日(金)10月12日(日)は10:00~22:00の間、14台の山車がそれぞれの町内を巡行します。
のの字廻しは指定場所に随時行います。(時間は不特定)
■11日は、14台の山車が一堂に整列します。
整列時間
11:00頃~ 香取街道
13:15~山車14台揃い曳き(市内巡行)
15:30頃~ 小野川沿い
17:00~全町内手踊り披露
■夜、日が暮れてから小野川べりで提灯に灯りがともった山車が曳き回される光景は必見です。
(1)佐原の山車祭りの変遷
佐原本宿の夏祭りと新宿の秋祭りは関東屈指の祭りとされ、市街地を曳きまわされる大人形、鯉や鷹などの作りものがのる山車や囃子は見事なものです。佐原の大祭は国の重要無形民俗文化財に指定されています。
夏祭りは八坂神社(旧牛頭天王社)の祇園祭で、古い町並みが残る佐原の中心部を流れる小野川の東側、すなわち本宿と称される地域の氏子各町内から山車が10台繰り出され、各町内を曳きまわされます。
秋祭りは諏訪神社(旧諏訪明神社)の大祭で、小野川西側の新宿と呼ばれている氏子区域の町内から山車14台が繰り出されて同地域を曳きまわされるのです。
祇園祭は祇園牛頭天王(インドの釈迦の生誕地に因む祇園精舎の守護神とされ、祇園信仰の神)にかかわる信仰で、中国を経て日本に伝えられる過程で陰陽道と結びつきました。牛頭天王は行疫神(疫病をはやらせる神)とされていたため、これを祀れば疫病その他の災厄を免れるとされ、広く信仰されました。平安京においては、もともとが内陸の湿地であったため、高温多湿の地域であったこと、人口の集中、飲み水の不備などにより、疫病が大流行したことから朝廷は牛頭天王を祀り、御霊会を行って無病息災を祈念しました。
佐原では嘉慶2年(1388)に八日市場の地に牛頭天王社があったといわれ、その後、
天和3年(1683)に浜宿に牛頭天王社が造立されたことが「佐原本宿牛頭天王の御由緒」に書かれています。佐原本宿の牛頭天王社の初期のまつりは、御神輿につけ祭りとして花万燈等を持ち歩いていただけのようです。牛頭天王社の山車祭り成立以前には浜降りの神輿渡御行列が行われていたようであり、(浜降りとは御神輿を水辺に出して禊をする行為をいいます。水には罪や穢れを洗い流す効力があると考えられていました)元禄年間になっても山車の記述はなく、囃子を中心とする練物(仮装、山車、囃子などが行列を作って氏子圏を練り歩く行為)であったようです。
佐原の祭りを語るとき、江戸との交流で経済発展した背景を見逃すことはできません。 江戸幕府が開かれて間もないころの江戸の人口は15万人程度であったそうです。それが佐原の山車の起源であるとされる享保6年(1721)には50万人(町人だけで、武士は含まれていない)にも膨れ上がっていきました。(武士などの人数を含めると一説には100万人も…)
江戸に幕府が開かれ、参勤交代が制度化されるようになると東北諸藩からの藩米を江戸に大量に運ぶ手段として、茨城県の那珂から水運と陸上輸送の手段では間に合わなくなり、銚子から佐原を経由して利根川で舟による輸送経路が開発されると、大消費地江戸を抱えた佐原は、米、味噌、醤油、酒、さらには肥料として需要の高い干鰯(ほしか:鰯を干したもの)を九十九里から仕入れて運ぶなど、隆盛を誇っていきます。元禄3年(1690)に幕府によって行われた河岸の調査で公認河岸とされた86か所のうちの一つに佐原河岸の名前があります。また、新宿の六斎市も盛んになり佐原で働く人の数も増えるとともに、有力な商人が江戸の文化を吸収しながら、佐原独自のものを模索し、忙しく働く人々をねぎらうためにその有力者たちが祭りを始め、山車の起こりも蔵方達が大八車に御幣を載せて遊んだのが始まりだともいわれています。
このような経過を見ていくと、もし、徳川家康が江戸に幕府を開かなかったら…今の佐原の豪華絢爛な山車祭りはなかったかもしれません。こうして見ると、佐原と家康の関係が深いものであることに気づかされますね。
(2)山車祭りの成立と展開
現在は露台の飾り物は大人形が主流ですが、もともとは山車が出る年ごとに氏子が手作りで作っていました。現在の仁井宿区の稲藁の鷹と、八日市場区の麦藁の鯉にかつての面影を見ることができます。その後、江戸後期になると江戸の人形師にその製作を依頼するようになっていきました。
経済力が増した佐原の有力者がそこで働く人々をねぎらうために始めた素朴な祭りが、江戸中期になると次第に華やかに町内ごとに競い合うようになり、大規模化して町内ごとに山車を作るようになっていったのです。享保6年(1721)に新宿の祭りに8台の屋台が現れたという記録があり、現在佐原の山車祭りの起源はこの享保6年としています。 現在ではほとんど見かけませんが、江戸時代から喧嘩や争いごとがつきなかったようです。
山車の順番争いがその最たるものだったようで、日本全国を歩いて正確な地図をつくった伊能忠敬も佐原の有力な商家であったため、争いの仲裁をしていたようです。(伊能家に入って7年後、24歳の時、明和6年(1769)に祇園祭礼に際し山車を引く順番を巡って本宿組の八日市場と、浜宿組の浜宿・河岸が対立しました。この時本宿組の名主後見『名主の相談役』であった忠敬が仲裁に乗り出したのです。)天保9年(1838)、この年本宿の祭礼でけが人の出る喧嘩が生じたため、地頭所より神輿、山車とも巡行の差し止めにあいました。この後、神輿の巡行は許されましたが、山車の曳きまわしは新宿、本宿とも、弘化4年(1847)までの10年間許されなかったということです。
明和7年(1770)には本宿の山車が10台出揃いました。現在、佐原には嘉永期の山車として、寺宿、田宿、上中宿の3台が現存しています。 安政5年(1859)に刊行された「利根川図誌」(赤松宗旦:利根川中流・下流の社寺・名所旧跡を書いた人)には、「この両祭礼は至って賑はしく、いずれも二重三重の屋台十四、五輌ずつ、花を飾り、金銀ちりばめ、錦繍の幕をかけ、囃子ものの拍子いとにぎやかに町々を曳き廻る。見物の群衆人の山をなし、まことに目ざましき祭りなり」と、表現しています。この表現からわかりますように、豪華絢爛な山車だったようですが、まだこの時代現在のような大人形はできていなかったようです