伊能忠敬あれこれ「医者になっていたかも?」

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                    「伊能忠敬像(九十九里町)」

伊能忠敬は10代の頃神保三治郎という名で勉学に励んでいました。

神保家は名家ですが父の貞恒はその頃ようやく分家したばかりで、次男の三治郎には継ぐ家がありません。

この時代、継ぐ家の無い者は僧侶、医者、あるいは学者にでもならなければ立身の手段がありません。三治郎は自分の生きる道を模索していました。

そのような所は現代の若者とかわりありませんね。

後に忠敬自身が語ったところによると、その頃土浦の医師のところで学んだことがあったそうです。多少時期がずれますが、杉田玄白がオランダ医学の翻訳「解体新書」を出版したのが安永3(1774)年、忠敬が30歳の時です。18世紀中頃からオランダの学問(蘭学)が日本に入りはじめ、やがて盛んになっていきます。後の忠敬の全国測量にも蘭学がおおいに関わっています。

数理に明るい三治郎ですからそのまま医学を学んでいれば医師として立派にやっていけたかもしれません。しかし、そうはなりませんでした。

親戚の平山季忠(すえただ)が佐原の酒造家の婿養子の縁談を持ってきたのです。    

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