千葉県をおおまかに南北に三つに分けた中部が昔でいう上総国です。この地方では「姉家督」といって男女を問わず長子が家を継ぐ慣習があったそうです。
しかし、怖いことにこの慣習には妻が死ねば婿は実家へ帰されてしまうしきたりがありました。
神保貞恒(伊能忠敬の父)は不幸にもその一つの例になってしまいました。小関家の婿になり妻・ミネ(忠敬の母)との間に三人の子宝に恵まれながらも、ミネが亡くなったことにより小関家を去らねばならなくなりました。
そうはいっても実家の神保家は兄が継いでいます。貞恒は実家の援助を頼りに商売を始めようと考えました。三人の子供のうち既に成長している長男と長女は商売や家事の手伝いができますが、まだ幼い末っ子の三治郎(伊能忠敬)は足でまといになると思ったのか小関家の置いていきます。うがった見方をすれば三治郎を残すことで小関家と縁が切れずにすむと考えたのか、あるいは三治郎が小関家を継げるようになるかもしれないとかんがえたのかもしれません。
しかし、そのようなことにはならず小関家を去ってから四年後、貞恒は11歳になった三治郎を引き取りました。その頃には商売が軌道にのってきたのでしょう。また、三治郎も手のかかる子供ではなくなっていました。三治郎は父のもとで修行することとなったのです。
貞恒はミネの死から六年後に再婚しますが終生ミネのことを忘れませんでした。後に善光寺(長野市)に詣でてミネの菩提を弔ったそうです。
天明2(1782)年に73歳で死去。伊能忠敬38歳の時でした。